埋もれた古城と上杉軍道

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第1回

 NHKの大河ドラマに登場する「山本勘助」を、ネットで調べていると、「埋もれた古城」というサイトに出合った。その中に、十日町市城之古(タテノコシ)琵琶懸(ビワガケ)城と書かれていた。驚いた、十日町に住んでいて、しかも実家は隣の集落なのに知らなかった。
 もっと驚かされたのは、サイトの管理人は関東の人で城跡を二回もわざわざ見に来ている事である。そんなに凄い城なのか?城之古は信濃川ギリギリにある集落である。城はたいがい山にあるのでは?調べてみるとなるほど凄い城であった。
 上杉謙信は、関東に約十五回出兵している、その数五千から一万五千この上杉軍団がどの道を通ったか?という事である。上越の春日山城を出発し、安塚の直嶺城で一泊、松代の犬伏城で二泊目、そして薬師峠を越えて鐙坂に出て高島城からいよいよ大河信濃川を渡るが大軍と渡し船のため時間がかかったことであろう。その渡し船の着いた所が琵琶懸城である。ここで三泊目、それから羽根川沿いに上がり栃窪峠を越え塩沢の樺野沢城で四泊目である。そして三国峠に向かうのである。この上越から塩沢を一直線に結ぶ道が「上杉軍道」である。
 通常、上越から柏崎、小千谷、南魚沼という本街道があるが、それを二日短縮するスーパーハイウエイを整備し造ったのである。しかも謙信の慕う姉のいる六日町の坂戸城とも最短距離である。松代の軍道区間は日本の古道百選に選ばれている。行って見なければ、まずは城之古琵琶懸城。

第2回

 謙信が軍道を造ったように武田信玄もまた信濃攻めの為、棒道を造ったしかも二本である。英雄は目の付け所が似ているのか。田中角栄の高速道路もしかりか。
 上杉軍団三日目の宿泊地、琵琶懸城(十日町市城之古)に行ってみた。初心者の私が見ても分かるほど跡がよく残っている。運動場ほどの広さの周りを土塁が囲み、その外側に水堀、空堀など、上杉直営のためか立派で軍道の要所であることが伺える。本丸、二の丸、三の丸も区画されていてよく分かるが、畑とお墓に使用されている。本丸だけは桜の木が植えてある、ここに謙信が泊まったのか。本とテレビでしか知らない謙信が身近に感じられる。感動!
 ガクトの謙信もよく琵琶をひいているが、この城の名前の由来も、その辺から来ているらしい。城、舘などを昔はタテと呼んでいたのでタテノコシという集落名になったのであろう。
 これほど遺構がよく残っているのに看板、標柱などが一つも無いのはもったいない。市に掛け合おうかとも思ったが、まてよ、集落の中に城址があり、それを生活の場として使っているのに、よそ者が来られても迷惑な話ではないか?と思い直す。なお、気持ちよく見学をさせていただくために、会った人には一声かける事を忘れずに!
 さて、軍団五千から一万五千この城にどうやって泊まった?ご飯は?弁当は?疑問が頭の中をぐるぐる回る。そして、上杉軍団の構成は?…それは次回に。

第3回)新潟県最古の建築物 松苧神社-1

 謙信が出陣の際立ち寄り戦勝祈願をして小刀と軍配を奉納した物が、今も松代犬伏の神社に残っていると言うので、それ見たさに気楽に人を誘い出かけたが、これが後にとんでもない事になるのです。この神社、マツイモ神社ではない。私の地図帳にも芋と書かれていたが、正しくは松苧(マツオ)神社です。松と苧(からむし)を持って天から神様が下りてきたのが名前の由来です、カラムシとは桑に似た植物で麻布の原料(アオソ)で、道の端などに普通に生えている植物です。この時代のこの地方の特産品で、上納された物が今も奈良の正倉院に残っているそうです。江戸時代には幕府の公式指定布に採用されている。雪のある冬仕事には丁度良かったのでしょうね。松は五葉松で当時はいっぱい生えていたそうだが今は一本も見あたらなかった。
 祭られている神様は、奴奈川姫(ぬなかわひめ)で古事記に出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)が糸魚川の奴奈川姫に求婚に来たとあるそうです。それで上越には姫川、黒姫山など姫のつく地名が多いそうです。神話の世界ですね。
 神社は新潟県最古の建築物で国の重要文化財です。八〇七年にでき一四九七年に現在の建物になり、昭和の大改修では約一億円かけています。驚きですね。仕方ないか山の頂上だから、今でこそヘリコプターがあるが当時、あの巨大な丸柱をどうやって上げたのか。頭が下がります。肝心の謙信の小刀と軍配見られませんでした。私の大チョンボで…

第4回)新潟県最古の建築物 松苧神社-2

 新潟県最古の建築物で謙信が戦勝祈願をした松苧神社は、松代犬伏城裏の山の頂上にあり山の中腹まで車で行けますが、あとは徒歩というか登山です。安易な気持ちで出かけたものですから、同行者はサンダル履きという出で立ち、階段があればいいのに、それが無い状態で最後にはロープが登山道に垂れ下がっている始末で二十分、山と格闘しご対面してきました。想像以上にりっぱで五百年を感じさせないが、中に入ると五百年前の世界そのもので感動です。奉納物を見ると柏崎村、十日町村誰がしと年号が書いてあるが、これが学が無く分からない残念。唯一分かるのは天保ぐらい、大飢饉が続いた時だよこれ古いよと言ったものの実は新しい方である。あと御輿があったのには驚きです、これを毎年村まで下ろしまた上げるのか?十分堪能し下山、車に乗りさて犬伏城にと思いきやエンジンが掛からない、やってしまった。バッテリーあがり…泣く泣く集落まで徒歩下山しました。
 謙信の小刀と軍配は集落の組長が保管しているそうでみれませんでした。あと誰もが思うことですがどうして山の頂上なのか、それは当時の世界観にあるんだそうです。山自体が神だと。

第5回)松代犬伏城

 毘沙門軍団二日目の宿営地、犬伏城に再チャレンジしてきました。松代犬伏集落から城山に上がるのですが、入り口が分からず道に迷い最初から不安になる。何とか見つけ上って行くと日本の古道百選に選ばれた道に出合う。人三人が並んで歩ける広さである、この道ものんびり歩いて見たいなと思いつつ先を急ぐと曲輪らしき物が次から次へと出てくる
 途中迷いそうになるが驚いた事に人が通った跡があり木には赤い布が結んであるので、何とか迷わず頂上の本丸にたどり着た。「やったー」征服感。まるで登山である。本丸からの眺めは最高であるが本丸の中央にりっぱな電波塔が…ちょっと興ざめ。
 謙信ご一行はここまでは来ない犬伏集落に泊まった事でしょう。集落は渋海川に囲まれ後ろは城山、そして舘跡や堀跡などがあることから、ここ自体も要塞(城)であったことでしょう。集落から薬師峠の道は南側の尾根づたいに造られている。これは雪を考えての事だろう。吹雪を軽減し春には雪融けが早いようにと、では冬も軍道を使ったのか?これが使った記録が残されているそうです。さぞ軍道沿いの集落は道ふみに苦労された事でしょう。
 次回は、期待の塩沢の樺野沢城です。

第6回)樺野沢城(南魚沼市樺野沢・旧塩沢)

 上杉謙信関東出兵四日目の宿泊地、塩沢の樺野沢城に行ってきました。
 軍団の状況に少しでも近づけるよう城之古の琵琶懸城から車で出発です。羽根川沿いに上がって行き栃窪峠を越えるとすぐ下に栃窪集落が有ります。この集落は軍道整備や情報収集のために作られた集落ですと文献には書かれていましたが私はちょっと信じがたいと思いました。
 集落を降りて行くと上越国際スキー場の入口あたりに出ます。その左隣の小高い山が樺野沢城です。ここで長岡方面から来る軍団と坂戸城の軍団も加わり大軍団になり三国峠越えに向かったことでしょう。この地は道から考えると大変重要な地です。関東から越後に入るのに、清水峠からの道と三国峠からの道がここでぶつかり、また妻有庄、信州方面と長岡方面と道が分かれて行く分岐点です。その道の分岐点にお寺があったそうですが、今回は確認出来ませんでした。余談ですが、清水峠は現在国道二九一号が通っていますが車は通れません。徒歩です。こうゆう道を点線国道と言うそうです。
 明治時代に一度、道幅四�の馬車が通れる位の道を開通させたそうですが、一年で崩落し現在に至っているそうです。清水峠は関東に行く最短距離ですので、謙信も最初のころは使っていたそうですが、三国街道が整備されると使わなくなったようです。
 樺野沢城は保存会が有り大変良く整備されています。駐車場、看板、標柱、下草刈りと快適に見学できます。また、遺構もよくのこり主郭からの眺めも素晴らしい坂戸城が良く見えます。御舘の乱(謙信の死後の跡目争い。謙信には子がいなかった為、北条から来た養子景虎と姉の子景勝の養子同士で争った)の小田原北条軍(樺野沢城占拠)と坂戸城の景勝軍のにらみ合いが伝わってきます。
 大変、満足出来る埋もれた古城です。保存会の皆さん有り難う御座いました。また、天地人の直江兼続も御尽力され十年来の悲願達成おめでとうございます。屋敷跡は線路が通るもののお城はスキー場にならなく良かったですね。次回は樺野沢城の本城である坂戸城に行ってみょうと思います。ちなみに、秀吉の命により景勝が会津に移封した時、松代の犬伏城も城之古の琵琶懸城もこの樺野沢城も廃城になっています。今から約四百年前の事です。

第7回)六日町坂戸城

 上杉謙信の、姉の嫁ぎ先ぐらいとしか知らなかった坂戸城に秋晴れの中登城して驚いた、この城は埋もれた古城ではありません。駐車場はいっぱい、人がわんさかいるではありませんか。立派な案内板に国の指定文化財と書かれ、これは凄いぞと思うが案内板の隣にスキーのストックがいっぱいあるのが気になった。家臣屋敷跡、石垣の御舘、中屋敷、一本杉と順調に見学。上杉景勝、直江兼続生誕の石碑を見て頂上の主郭を目指すが、思ってもいない苦しみを味わう事になった。とにかく登りがきつく雪も付かない様な急斜面。何度、引き返そうかと思ったことか。体力には自信があったのに、いつの間にか年を取っていた自分に愕然とする。何度か休んで桃の木平、水場を見てやっと頂上に着くと何と…人がいっぱいいるではありませんか。どうやらマニアックな裏道から自分たちは来たのだと気づかされた。頂上には富士権現堂がありノートを見ると関東から随分来ている。この日の午前だけでも十五人位の名前が記帳されていた。平日で一日三十人から五十人とすると土日は、どの位登城しているのだろうか?坂戸城(山)は多くの人たちに愛されている山だと感心した。後日、山登りが趣味の友人に、えばって「坂戸城に登って来た、お前あるか?」と言うと、何と、「毎年元旦、初日の出を見に登っている」と言う。かんじきで雪をこざいて新年一番で道を付けるのが何ともいいのだそうだが、私にはわからない。
 素晴らしい眺めを堪能しながらおにぎりを食べて下山する。尾根づたいの道は整備されているが、ほとんど階段でこれもまたきつい。この城は難攻不落だと思ったが、謙信が包囲すると政景はあっさり降参。以後、謙信の重臣になり春日城の留守居役まで務め信頼を得ている。謙信は母の愛を受けずに育つが、その分姉から愛を受ける。その慕う姉をいさかいの絶えなかった長尾政景に嫁がせるのは幾ばくの思いであったか。謙信が独身であったのは姉以上の女性がいなかったからとも言われている。姉の子、景勝を養子にするが小田原北条からも養子(三郎景虎)をとり、姉の子を嫁がせる。謙信の亡き後、姉(仙桃院)は辛い思いをする事になる。ちなみに政景は湯沢野尻池(大源太湖)で柏崎宇佐美氏と舟遊びをしていて舟から落ち二人とも溺死しているが、事故なのか暗殺なのか今だ謎のままである。

第8回)御館(おたて)乱

 越後の守護は上杉家、守護代は長尾家であったが上杉家から守護職を奪い取り越後を治める。長尾家は上越の長尾家、長岡の長尾家、六日町の長尾家と三家あるが仲が悪かった。上越の長尾家が長岡の長尾家から嫁(謙信の母)をもらい絆を強くする。そして謙信の姉を六日町の長尾家に嫁がせ謙信が越後を治める。そんな折、関東管領上杉憲政が「上杉家と関東管領職をやるから助けてくれ」と逃げてきた。儀の男、謙信はそれを受けて「御館」に保護する。そして関東出兵15回と長い戦いが始まるが平定出来ず、小田原北条と和議を結び、その証として北条の息子を養子にする。血を分けた姉の子も養子にして二人をかわいがり謙信は満足そうであった。
 謙信急死、遺言もなくいきなりであったので家督争いがおこる。姉の子は「オレが跡継ぎだ」と春日山城を占拠、北条の息子は当然反発「御舘」に籠もる。それで「御館の乱」と言う名前がつきました(長々説明すいません)。
 謙信は、上杉家(関東管領)を北条の息子(景虎)に、長尾家(越後国)を姉の子(景勝)に継がせようと考えていたらしい。最初は景虎が有利であった、関東から北条が援軍をだして塩沢樺野沢城を占拠、信濃からは武田が来るはず(北条から嫁をもらっている為)。ここで直江兼続がすばやい仕事をする。武田をお金で買収するのである武田は長篠の戦いで信長に敗れボロボロ状態困っていた。和議の証として娘を景勝は嫁にもらう。これで景勝有利になり勝利する。後に「天下の政治を任せられるのは直江兼続しかいない」と秀吉が言ったのは、こんな所からも伺える。

最終回)「軍役」

 謙信が新潟県知事なら有力武将は市長で約39名いました。各市長に100~300人の軍役が課せられました。内訳は槍持、食糧兵、旗持、鉄砲、騎馬兵各何名出しなさいと来るわけです。市長は農民から15歳から60歳までの男を徴兵する訳です。武田に至っては70歳まで徴兵したそうです。   
後ろで旗持ってるだけでいいから来てくれや」数で圧倒するわけです。
 今の日本では兵役と言われてもピンとこないが、アメリカや韓国では最近まで兵役義務がありました。アメリカは今は志願兵らしいですが貧困層の救済制度にもなっているそうです。大学の授業料免除や優先的就職など得点が色々あるようです。当時もそれてきなものがあったのではないか。百姓かわいそう、むりやり連れていかれたんだ。と思いがちてすが、あながちそうでもないみたいです。
 百姓の五男坊六男坊行き場のない、食べ物もないものにとっては出世のチャンスだったのではないだろうか。手柄を立てる、褒美を貰う。白いご飯が腹いっぱい食べられると言うだけで行った人もいるようです。 
 兵力は通常で5千、もろもろ集めて8千位だったようです。軍事財源は越後特産のアオソ(越後布)税が他の大名に比べ助けたようです。佐渡の金はまだ始まっていなかったから、春日山城に金があったのは南魚沼の五十沢で掘っていたものだろう。武士1に対し農民3がどこの軍団も平均だったのに対し、織田の軍団は兵農分離政策をいち早く取り入れ軍隊だったようです。武将がサラブレットにまたがり勇壮に戦うテレビのシーンあれは嘘のようです。当時、日本の馬といったら木曽馬か北海道の道産子位でポニーのように小さく足が太い農耕馬で走っても人が走るのとたいして変わらなかった、しかも持続性は100メートル位、武将の移動手段くらいだったのでしょう。
 最後に上杉軍団の食事について書こうと思ったのですが、資料が見つかりませんでした。ただこの時代は1日2食だったそうです。3食とる様になったのは江戸時代になってからのようです。
 長々有り難う御座いました。これで「埋もれた古城と上杉軍道」を終わらせて頂きます。(おわり)

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